イシガメのページを作っていると、どうしても違和感が生まれる。
その違和感の正体は、「実体験」が含まれていない記事だからだ。
私は一度もニホンイシガメを飼ったこともないし、野生のニホンイシガメを見つけたこともない。
もちろん、動物園などの施設ではニホンイシガメを見たことがある。
けれどもそれは、水槽の中で泳いでいる姿のみ。
私は、自然体のニホンイシガメの姿を知らないのだ。
そもそもの話。
よく考えてみたら、野生のカメ自体見たことがないのではないか?
クサガメやアカミミガメは飼育経験があるが、こちらもやはり、野生下での姿は知らないし、更にそもそもの話をしてしまえば、「野生のカメ」とは一体どこからが野生と認識できるのだろうか、という疑問が浮かぶ。
池や沼、川辺へ行けば、今では多くのカメを見られる。
私の知っている都内カメスポットでは、アカミミガメとクサガメが悠々と泳いでいたりバスキングをしたりしている。
これらのカメは、もし管理者がいない(施設やその水辺の管理者が餌を与えていない)場合は、おそらく野生のカメと呼んでも差し支えないだろう。
その環境に適応した、立派な野生のカメに違いない。
しかし、私はこれにも違和感を覚える。
確かに出掛けた先でカメを発見すると嬉しいが、ここで言う「野生のカメに会いたい」という気持ちとは、また少し違うもののように感じるのだ。
きっと私は、「本来の生息地で生きるカメ」に会いたいのだと思う。
クサガメで言ったら韓国、中国、香港、日本列島内の湿原や水田地帯。
ミシシッピアカミミガメで言ったらアメリカ合衆国中東部やメキシコ北部。
ニホンイシガメで言ったら、日本列島内の綺麗な流水域。
あくまで推測の域に過ぎないが、きっと私が都内でよく見るカメたちと現地に生きるカメたちとでは、「何か」が違う気がするのだ。
ただの妄想、カメの理想を重ねているだけかもしれない。
けれども、生息環境やその個体の警戒心、餌に対する執着など、人間との距離感で変わるであろうそういった小さな違いも、私は知っておきたいと思っている。
その中でも特に私は、野生のニホンイシガメに会いたいと思う。
未だ会ったことのない、日本固有の貴重なカメ。
きっと私が求める「野生のカメ」の生き方を見れるとしたら、同じ日本に生きるこのニホンイシガメしかいないだろうから。
目的。
会ってどうするのか?
私の中では、純粋な「知りたい」という気持ちが強い。
ここにいる。ここにはいない。こうやって生きてる。どうやって生きてる?
ただ、自分の目で確かめたい。
そうじゃなきゃ、イシガメについて胸を張って語れない。
ただの知識ではなく、実体験が欲しいのだ。
強いて言えば、野生のニホンイシガメの写真が撮りたい。
というのが、唯一形ある欲求だろうか。
ニホンイシガメの情報。
ある日、某番組でニホンイシガメについて特集していた。
そこには里山で、人間と上手く共存し生きるニホンイシガメの姿が映っていた。
それは正しく、私が抱く理想のカメの生き方であり、またカメとの理想の関わり方だった。
里山の重要性と現代社会の発展という、相反する難しい問題は後述するとして、この番組を見て私が至る思いは一つ。
この場所に行ってみたい。
しかし、どう探しても場所についての情報は見つからない。
番組の話を抜きにしても、野生のニホンイシガメについての生息地情報を公開している動画やブログは一切見当たらないのだ。
それもその筈、もしただでさえ貴重なニホンイシガメの生息地を一般公開してしまったなら、私と同じようにニホンイシガメに会いたいと思っている人が殺到し、その地を意図せず荒らすことになってしまったり、ニホンイシガメを悪意的に捕まえようという人も現れるかもしれない。
ニホンイシガメに限らず、あらゆる動物に関する生息地は意図的に伏せられている場合が多いが、これには動物好きたちの本当の愛を感じてやまない。
反面、目的の動物探しに苦労することになるのだが、それはそれで楽しいからいいだろう。
ふと、思い出す。
先述した「生息地を伏せる」ことの重要性を裏付ける思い出話だ。
小学生の頃の話。
教室の窓際に、隣接して大きな木が立っていた。
窓の外には大きな木。
その木は風に吹かれればそよぎ、鳥が止まれば不自然に揺れる。
休み時間、その様子を何をするのでもなくただ眺めるのが好きだった。
そんなある日、その木の枝と枝の間に、鳥の巣らしきものを発見した。
何の鳥かは分からなかったが、その中には数個の卵があるようで、親鳥が戻って来ては黙って巣に座り卵を温めているようだった。
(雛が生まれる観察ができるかも)
そう思ってワクワクしていると、私しかいなかった教室に、当時密かに「気になっていた人」が入ってきた。
「ほら見て。あそこに鳥の巣がある」
「どこどこ? あ! 本当だ!」
そういってその人に巣の場所を教え、ほんの数分、2人教室で盛り上がった。
きっと私は、その人の気を引きたかったのかもしれない。
二人だけの秘密を共有をしたかったのかもしれない。
一緒に鳥の観察ができたら素敵だなと、そう思って……。
だが結果は私の予想外の方へ動いてしまった。
窓際から鳥の巣が見えるという噂が瞬く間にクラス内に広がり、クラス全員が窓際に集結する自体になってしまった。
まあ、そこまでならまだ良かった。
みんなで大切にこの鳥の子育てを見守ることができたのなら、それはそれで素敵なことだと思ったからだ。
しかし。
一部の人達が、ゴム鉄砲を作りその鳥を攻撃し始めた。
卵を温めて動かない鳥が、つまらなくなったのだろう。
ゴミを投げたり大きな音を立てたり、もうやりたい放題やっていた。
追い打ちをかけるようにショックな出来事が続く。
それは、ゴム鉄砲を撃ち鳥を攻撃している人の中に、最初に私が鳥の巣の場所を教えた「気になっていた人」の姿があったからだ。
数日後。
恐らく皆飽きたのだろう、誰も巣のことを気にしなくなった。
一見平穏な日々がまた戻ったが、私の気持ちはしばらく晴れなかった。
その後何事もなかったように、鳥たちはなんとか無事旅立った。
そして結論。
卵や雛の成長を毎日楽しみに見ていたのは、結局のところ私だけだったと知った。
後悔と罪悪感。
巣立ちを終えた空っぽの巣を見つめながら私は思う。
私がここに巣があることを言わなければ、もっと静かに暮らせただろう。
言わなきゃよかった。
気づかなければよかった。
色々な感情が、当時、そして今でも胸に残る。
この出来事から、「生息地を伏せる」ことの重要性を身を持って感じた。
承認欲求、自己顕示欲、人間には様々な欲があるのと同時に、ある出来事に対する人間の考え方も人それぞれだ。
情報を共有した先にどんなことが起こるかの予想。
そして情報を共有した先の人々が、自分と同じ考えの人だとは限らないという現実。
これらをよく把握し、自分自身の欲をコントロールしていくことが大事だと学んだ出来事であった。
話を戻す。
ニホンイシガメに会いたいという私の願い。目標。
この夢が叶うにはきっと2通りの道がある。
1つは「自分の力で見つける」
もう1つは「信頼できる人からの情報提供」だろう。
ニホンイシガメ発見までの道のりは長そうだ。
思考角度を変える。
私はフィールドにはよく出る方だ。
といっても月に何日か程度なので、本格的にフィールド調査をしている方々には劣るだろうが、それでも動物や自然の観察を目的にフィールドに出るという意識と行動は、普通の人よりはあると思う。
まあ、頻度の追求はこの辺にして、結構意識してフィールドでの観察をしているが、どうしてこんなにもニホンイシガメに遭遇できないのだろうか。
多くの方が御存知の通り、ニホンイシガメは準絶滅危惧種。
個体数が減っているのだから、必然的に見つかりにくいのは当然のことであろう。
個体数が減っている原因は様々で、抜粋して書き上げると、
販売目的の乱獲。
里山の減少、河川の整備に伴う生息域の減少。
外来種による生存競争敗北。
クサガメとの交雑による遺伝子汚染。
等が考えられている。
販売目的の乱獲については、法規制をすることである程度は抑制できると思うのだが、今回取り上げて考えたいのは、「里山の減少、河川の整備に伴う生息域の減少」に関連する「環境保全」についてだ。
(外来種問題と遺伝子汚染については、また別の機会に)
私は、「生息域内保全」を大切にしていきたいと考えている。
したがって、保護区の指定や設定には賛成だ。
緊急的に、「生息域外保全」に注力せざるを得ない状態は、とても違和感を覚え苦しい環境で、なんとか自然的に個体数の安定が保たれれば良いなと願ってやまない。
ここからは、少し深掘して考えていきたいと思う。
まず、どうして里山が減少しているのかという点だ。
昔は里山と呼ばれる「自然と人間が良い均衡を保っていた領域」が多くあった。
人と動物が程よい距離感で生活できていた、そんな環境だ。
しかし現代ではどうだろうか、里山からは人が消え、家が消え、畑が消え、土地が均され川が整備され、新たな建築物が作られている。
それは何故か?
私も田舎から上京してきた身なのでよく分かるのだが、普通に生活するだけでも結構な額のお金が必要な時代だということが前提でありながら、なおかつ田舎には仕事がなかった。
仕事がないのでその土地を離れざるを得ず、そして土地を離れればその土地の人口が減っていく。人口が減れば空き家が増え、荒れ地が増え、しかし逆に都心の人口は増えるので、新たな家や施設はどんどん地方に進出してくる。
動物側からしてみれば、山を下ったらすぐにコンクリートが登場するという、異世界のような環境がいきなり目の前に現れるのである。
またそれに伴い、河川の整備も必須になる。
昔は河川の氾濫は自然が起こす「致し方のないこと」だったかもしれない。
しかし現代には人間が生き抜く為に培った多くの知恵がある。
その知恵を使って河川を整備し、河川の氾濫によって起こる被害を最小限に抑えているのだ。
すべて人間が生き抜く為、誰かが誰かを失わないために築き上げてきた仕組み。
意図的に、動物たちを住みにくくしてやろうと考え実行したものではないと思っている。
結果論だが、人間が生きようとすればするほど、野生の動物にも影響が出てしまうのだ。
一部に人口が集中し、一部の人口が減っていく時代の流れを変えない限り、理想的な人間と動物との共存環境は実現しないだろう。
一種の光。
しかし最近になって、リモートワークという働き方が普及してきた。
時間と場所を選ばない、フリーランスという働き方も珍しくない。
これはある意味、人口集中型の今の環境を改善できる希望の光なのだと感じている。
私が田舎から上京してきた理由の1つは「仕事がない」からだった。
仕事があったら、きっとその地に留まり生活していただろう。
この働き方が今後定着し、田舎の過疎化の解消。都心からの人口の分散が成功すれば、かつてあったような「自然と人間が良い均衡を保っていた領域」が増えるのではないかと期待している。
その為には、自然災害を受け入れる覚悟が必要になってくるのかもしれないが。
意識を広げる。
環境破壊という大きな枠組みでも少し考えてみたいことがある。
現在深刻化する、アマゾン及びアマゾン川の環境破壊と汚染について、聞いたことはあるだろうか?
ざっくり概要をまとめると、アマゾン各開発計画に伴い、道路開拓、農業地開拓等が行われたことによる森の消失。更に木材を不法に伐採する業者や、アマゾン川で違法に金を採掘し、その過程で使用した有害な水銀がそのまま川に放出されているという内容だ。
これにより水や魚は汚染され、更にアマゾン川流域に住む先住民たちが苦しんでいるという現実が、ある日私の目に映像として飛び込んできた。
なんて酷い。普通にそう思うのだが、このとき見た番組ではその違法な仕事に従事する一人の人に「なぜ違法な仕事をしているのか」という趣旨のインタビューをしていた。
その回答が、「自分には養わなければいけない家族がいる。悪いことだとは分かっている。でも、今生きるためにはこれしかない」という趣旨のものだった。
違法なこと企画する人が悪いだろう。しかしそれで命を繋いでいる人もいる。
違法でなくても、急激な開発計画で罪の意識なく環境破壊をする人々がいる。
違法でないものはその国の意志だ。
もちろん、純粋な悪意や欲望の結果として違法事業に取り組んでいる人もいるかもしれないので、すべてを肯定することはできないけれど。
有限の自然環境を相手に無限に仕事を作り出すことは難しい。
水と食べ物だけでは生きられなくなった私達人間は、一体どうすればよいのだろう。
もちろん、私はアマゾン川を一度もこの目で見たことがないし、私自身が現地の人にインタビューしたわけではないので、この話が本当なのかどうかは分からない。
受け取った情報を鵜呑みにすることは決してしないが、ここにも、「生きる為の仕事」を求めた先に、「環境の破壊」が結果として現れた例が見て取れた。
個人であれ、国であれ。
無視してはいけない現実。
都市開発をやめた結果、違法事業をやめた結果、河川整備をやめた結果、公共事業をやめた結果、起こる現象は様々だが死んでいく人々がいるのは確実だ。
規模の大小は関係なく、環境を破壊するなと訴えるならば、まずはその足元の人々の生活を守らなければならない。
誰もが自然を保ちながら生活できる環境を実現するには、「お金と仕事と精神の余裕」のバランスが必要なのだと、そう思う。
終着。
野生のニホンイシガメに会える日まで、そのタイミング待とうと思う。
いつか会いたいという期待を持ちつつ、これからも川や山、森の中に出掛けたい。
ずっと探し求めていれば、偶然であれ人の紹介であれ、きっと会える日が来るだろうから。
前述した「お金と仕事と精神の余裕」。
この3つがバランスよく揃えば、きっと人間と自然と動物の共存は可能だと考える。
そうすれば、ニホンイシガメのみならず、様々な動物との遭遇率は上がるだろう。
皆今を生きる為に必死だ。必死であればあるほど、周りや先は見えなくなる。
守らなければならないものがあるなら、なおさらに。
お金があればあらゆる保護活動ができるであろうし、仕事があれば最低限の整備行動が可能だ。精神の余裕は動物や未来の予測に欠かせない。
残念ながら、私は「今生きるために余裕がない状態」だ。
よってこうして、ただぐるぐると考えることをするしかできない。
考えている時間があったら行動しろ。ごもっとも。しかし「何かを守る情熱」が欠如している今の状態では、「自分を守る為の休息」に時間を使う。
私にとっての休息は、こうしていろんな方向へ「思考を巡らせる」ことだから。
曲解的終着。
動物たちが住む森や自然を守る方法。
究極はこの地球上から人間がいなくなること。
これはよくある結論で、様々な作品のテーマにも取り上げられていると思う。
正直、今の世の中の動きを考えると、不可能ではないと考える。
その方法は、地球上のすべての人が、仮想空間に移住するのだ。
肉体は地球上にあるので、「地球上から人間がいなくなる」という表現には語弊があるが、あらゆる経済活動や人間的思考が仮想空間へと向いてしまえば、地球上での人間の生産活動は最低限に圧縮されるだろう。
メインの生活空間を
人間は仮想空間。
動物は地球。
と生存環境を棲み分けてしまえば、あらゆる問題は解決するのかもしれない。
「動物がいない世界に楽しさを見い出せるのか?」
私は自分自身に問う。考えた結果、こう思った。
「仮想世界に、仮想世界にしかいない『動物的な生き物』……分かりやすく言えば幻獣とか魔獣のような生物が出現し、それを観察できたり飼育できたりするのならば……」
前向きに考える一方でやはり複雑な心境も芽生える。
仮想世界はもちろん、人が作った世界。
誰かが作った世界で誰かが作った動物を飼ったり観察することに、楽しさや意味を、本当に見い出だすことが出来るのだろうか?
いつも誰かに監視されているようで、弄ばれているようで、きっと気が休まらないだろう。
しかし自然発生的に、誰の管理下にもない動物に類する何かが発生したと言うならば、私の興味は、きっとそちらに向くのかもしれない。
writing 2022/10/3