最強のアカミミガメ 2023/04/01

animals think

カメの塗り絵が目の前にあったとして、人々は何色の色鉛筆を手に取るだろうか?
私を含め恐らく大半の人は、緑色の色鉛筆を手に取るだろう。
さて、この色の印象はどこから来るのか。
私のことを例に上げるとするならば、幼い頃からミシシッピアカミミガメを「ミドリガメ」として飼っていたからだ。
縁日のカメすくいで、ゼニガメとミドリガメをすくって持ち帰り、虫かごに似た容器の中に入れて、興味津々に育てていた。
ミドリガメは当時、犬や猫よりも身近な存在で、金魚と同じくらい手軽に入手できた。
大人になってこのカメがクサガメとアカミミガメだということを認識したが、子供心にはやはり、鮮やかな緑色が印象に残るのだろう。
ミドリガメという呼ばれ方も相まって、「カメという生き物は緑色」という印象が広まっていったのではないかと思う。

ちょっとした疑問。
なぜ赤い色鉛筆を持ち「赤耳」を描かなかったのかということだ。
アカミミガメを飼っていたならば、頭部目の後方にある赤い斑紋を見ていた筈だ。
それなのにカメのイラストに赤耳を描き入れる人は少ない。
きっと「ミドリガメ」が「アカミミガメ」として最初から売られていたのなら、人々が最初に持つ色鉛筆は赤色になっていただろう。
それほどまでに、「ミドリガメ」という名前が、カメを飼っていない人にとっても、「カメは緑色」という想像を定着させたのだろうと、改めて思う。

純粋な話。
私はカメが好きだ。
飼っていたからという理由もあるが、クサガメも好きだし、もちろんアカミミガメも好きである。
カメは大変身近な生き物であったと前述したが実際、私の身近でカメを飼っている人はほぼいなかった。カメとの接触機会といえば、自分の飼っているカメか、縁日のカメすくいを覗くか、水族館にウミガメを見に行くかしかなかった。
しかし東京に住んでいる現在、田舎に住んでいた時より、明らかにカメとの接触頻度が高いことが伺える。
コンクリートジャングルのど真ん中の噴水。お寺のため池。小川の中。
どこに行っても、探せばカメがバスキングをしていたり、小さな頭を水面にちょこんと出しているのを見つけられる。
その殆どはアカミミガメだが、純粋に、私は外でカメに出会えることが嬉しかった。

反面。
もちろん大人なので、アカミミガメにまつわる様々な問題も知っている。
なんとかしなければならない状態だということも分かっている。
その上で、今を生きるアカミミガメの姿を見ているのだが、大抵アカミミガメの話題になると、「外来種」というワードが持ち上がる。
そして続けて起こるのが、アカミミガメの処遇についての、人間同士の言い争いだ。
私はこれが嫌だった。
私は今目の前でバスキングをしているアカミミガメの可愛さや生命力、そしてそののんびりと太陽を全身に浴びて微睡む、その不動の存在感について語り合いたいだけだというのに、どうあっても、暗い話題に転換してしまうのだ。
そう。アカミミガメは好きだ。しかしアカミミガメという話題を出すことによってついてくる様々な意見のぶつかり合いを見るのが、私は苦しくてたまらなかった。

敬意の念を持って。
アカミミガメは凄いと思う。水質汚染にも強く汽水域でも姿を見られるそうだし、雑食性で寿命も長い。腕や顎の力は強いし、脱走の執念は他のカメを逸している。
飼っていても分かるが生命力が半端じゃない。
どのような環境でも生存競争を生き抜き、生息域をどんどん拡大していく様は、生き物として完成されているのではないかとさえ思う。
しかし「強者」の宿命とも言うべきか。強いものはいつか「敵」と認定されてしまう。
人間含め「天敵」というものは、生態系を持続していくために必要不可欠なものなのだろう。

話題を広げる。
ミシシッピアカミミガメ、アライグマ、ガビチョウ、アメリカナマズ、ブルーギル……。
外来種は何故いるのか? それは私達人間が本来の生息地から連れてきたからだ。では何故連れてきたのか? 理由は様々あるが、主に愛玩用だったり、鑑賞用だったり、食糧不足を補う為だろう。
そして考える。これらの理由は決して、「生態系を壊してやろう」という悪意を持って行ったものではないのだろうと。
当時の様々な問題を解決する為の一つの手段として取られた行動で、それが結果として現代に現れているだけなのだと。
本来であれば、人のもとで一生を終えるという前提で販売されていたり、食用として食べられる前提で生かされていたものだ。
アカミミガメで言うならば、当時ミドリガメがここまで最強の生物だったことを予想できただろうか?
野に放たれて初めて分かった事実……?
いや、専門家であれば予見できたのかもしれない。だが、輸入を中止させるほどの権力や強制力は恐らく発揮することは難しいと想像する。
誰かが行動した結果。しかしながら、現在の状況を置いておけば、外来種という異国の生物に命や心を救われた人もいるだろう。

悪意がなければいいのか。
そんなことはない。人間の社会生活においても、悪意を持って迷惑なことをする人よりも、悪意なく迷惑なことをする人の方が厄介であることの方が多いと感じる。
外来種問題を初めて知ったときは、確かこのような事が言われていた。
「無責任な飼い主が飼えなくなって野に放ったのだ」と。
しかし同時に私はこう思った。

(せいぜい一家庭で飼われるカメの数は1匹。多くて4匹。しかも子ガメのうちから飼うから、オスメスは選んで飼ってない筈。その雌雄未判別のカメを数匹川や池に放ったとして、ここまで大繁殖するだろうか?)

カメは寿命が長い為、塵も積もればと言うように、一匹、また一匹と放たれたカメたちが偶然出会い繁殖したということもあり得なくはないが、なんとなく、販売業者が売れ残った大量のカメを放流したのでは? という憶測をしてしまう。
そうなれば、繁殖成功の確率が格段に上がってしまうだろう。
悪意なしか、悪意ありか。どちらにしろ結果は同じだ。

例えばの話。
「どうしても飼えなくなったら、野に放たず飼い主が責任を持って処分する」という最後の手段を聞いたことがある。それになぞらえて少しこんな世界を考えてみた。

カメに限らず、動物をペットとして迎える際、販売元からその動物が納まるサイズの白い箱を一緒に渡される。その白い箱は、一面だけガラス張りになっており中が見える構造だ。

「どうしても飼えなくなったら、この箱にその動物を入れて、上部右下にある赤いボタンを押してください」

この箱がなんの箱か、勘のいい人なら分かる筈でしょう。

「どうしても飼えなくなったら」必ずこの白い箱に入れて赤いボタンを押すことが義務化された世界の例え話。
「どうしても飼えなくなったら」私は、あなたは、この箱に長年生活を共にした動物を入れてボタンを押すことができるだろうか?
人間が感情的であればあるほど、きっと外へ逃してしまうだろう。
逃げてしまったということにして、どこかで生きていてほしいと願って。
忠実に義務を果たす人と、果たせぬ人、果たしてどちらの数が多いだろう。
そしてもしこの箱が、一面だけガラス張りでなく、完全に中身が見えない状態だったのなら、結果は変わってしまうのだろうか。

そもそも、飼えなくなったら処分する前提での飼育は、責任ある飼育と言えるのだろうか?

話を今に戻すと、実際に「いらなくなったから」という信じられない理由で飼育放棄をする飼い主もいると知っている。飼育放棄者を擁護するつもりは一切ないが、飼えない=処分するという選択をせずに、飼えない=捨てるという選択をすることは、少なからず自らが処分することに対する抵抗と罪悪感あっての行動なのだと想像する。

結局のところ、罪悪感に胸を痛めながら動物を逃がす飼い主と、責任や罪悪感から逃れる為に動物を逃がす飼い主は、気持ちは違えど結果は同じだという皮肉な話だ。

まあ正直、「いらなくなったから捨てる」という考えの持ち主は、この例え話の世界では躊躇なく白い箱に動物を入れて赤いボタンを押しそうな気もしなくもないが……。

そうなると、動物を「飼えなくなったから」といって躊躇なく白い箱に入れて赤いボタンを押す飼い主と、「飼えなくなったから」といって哀れみの気持ちで外へ逃がす飼い主とでは、前者の方は「生態系に配慮した責任ある飼育者」で、後者の方は「生態系に悪影響を及ぼす無責任な飼育者」と言われるだろう。

この評価、あなたならどう受け取るだろうか。

この例え話の世界に、中長期的にその動物を預かる場所や、引き取り・保護してくれる人や施設が正式に存在したのなら、「逃がす」「放棄する」「白い箱を使う」という選択肢の色は薄まっていたと想像する。この「正式施設に預ける」という選択は、飼い主にとっても動物にとっても一番安心できる選択だ。これこそ、しっかりと命を預かる責任を果たしているように感じる。むしろこの選択を義務化するべきかもしれない。
しかしその管理運営は、かなり大変なことだと想像に難くない。
……このような正式施設が必要なのは動物に限らず、人間にも言えることなのだが。

可哀想という感情。
ある機会に、とある社長と雑談をしていた時のこと。

「会社にね、ネズミが出たんですよ。女性社員がなんとかしてくれと悲鳴を上げるので、罠を仕掛けて駆除したんですがね……」
「それは大変でしたね。女性社員たちも、これで安心して仕事に集中できるでしょう」
「いやね。その社員たちが罠にかかったネズミを見て『可哀想だ可哀想だ』って言って、私を見るんですよ……。」

その社長の複雑な顔が、今でも忘れられない。
「可哀想」という言葉は、女性社員にとっては自己の潔白証明や罪悪感からの逃避を目的とした、無意識の言葉なのだと私は想像する。
しかし駆除を依頼した側がその気持ちを無意識に発することで、駆除を実行した側は自身の行動を責められているように感じてしまう。
この場合駆除を依頼した側は、可哀想だと思っても決して可哀想だと口にしてはいけなかった。もちろん駆除された動物が一番哀れではあるのだが、立場上駆除を実行した人が、精神的負担が一番大きくなるからだ。
誰だって、生き物を駆除することを好きでする人なんていないのだ。
自分の罪悪感を可哀想という言葉に変えて、動物や他人になすりつけてはいけないと、深く感じた出来事であった。

私の感情。
私は基本的に動物に対して、可哀想という感情があまり湧いてこない性格だ。
山で傷ついた野鳥を見かけても、きっと君は誰かの貴重な餌となるのだなと考え手を差し伸べることはしないし、蜘蛛の巣に掛かった美しい蝶々を見ても、この蜘蛛にとって何日ぶりのご飯なのだろうかと考え放置する。
幼い頃から野生動物のドキュメンタリーを多く見ていたせいか、弱肉強食な世界に、感情的になってわざわざ手を加えようとは思えないのだ。
保健所に連れて行かれる愛玩動物たちに対しては、前述した通り、私が可哀想という言葉を口にすることで更に辛い思いをする人間がいる以上、決して口に出すことはできない。
もし可哀想という気持ちを口にしたいのであれば、実際に保護や救助の行動しなければ筋が通らないからだ。

私は冷酷無慈悲だろうか?
そんな人ほど、外来種駆除要因として最適ではないだろうか?
その考えは、完全に的を外していることを自分がよく知っている。
私は「可哀想」と思う感情が薄い分、「罪悪感」という意識に、非常に強く重く支配されてしまう傾向を持っているのだ。

いくつかの例を出してみよう。
故郷が漁師町な為、魚釣りをよく楽しんでいた。
大人になってもたまに釣りはするのだが、いかんせん私は、魚を「〆る」事ができないのだ。
釣った魚をバケツに入れて、「いつの間にか死んでしまっている魚」は躊躇なく捌くことができるのだが、まだ生きている魚を、自分の手で〆て捌くことが出来ない。

私は一時期アリジゴクの観察をしていた。餌はもちろんアリやダンゴムシだ。
しかし私は、生きているアリやダンゴムシを虫かごに投入することにとても抵抗があった。でもこのままではアリジゴクの方が死んでしまうので、意を決してアリやダンゴムシを虫かごに入れていたが、その度に強烈な罪悪感に襲われた。

(このアリは巣に帰る途中だったのではないか? 私が捕まえなければ、今頃は……)

アリジゴクは無事ウスバカゲロウになったが、この観察は私にとって大変苦しいものとなった。
他の誰かが生き餌をしているのを見るのは、別に平気だというのに……。

上記の例を分解して分かるのが、「自分の手を汚したくない」という心理状態だ。
これは動物に対してだけではなく人間に対してもそうなのだが、自分の手で相手の人生や運命に手を加えたくないと強く思っているからだ。
私は自分の手で動物に死を下したり、自然の運命を変えたりする行動に、強烈な罪悪感とストレスを感じてしまう。
だからきっと、外来種の駆除を始め、動物の殺処分や食肉の加工をしようものなら、精神的な面で自らが死ぬことになるだろう。
この私の汚くて弱い性格を考慮した上で考えると、現在外来種駆除に当たってくれている人々や毎日新鮮なお肉を提供してくれている食肉加工業の人たちには頭が上がらない。自分の代わりに手を汚してくれているのだから。
もし私が可哀想だという言葉を仮に口にしたのなら、肉を食べる資格はないであろう。
もしこの世界が「自分で食べる肉は自分で調達する世界」だったのなら、私は育てた牛や鶏を〆て調理することが出来ただろうか?

閑話休題。
よく「寂しいからという理由だけで動物を飼ってはいけません」と言うセリフを聞く。
では皆どういう気持ちで動物を飼っているのだろうか?
寂しいから。可愛いから、飼ってみたいから。
おそらく大半がこのような理由からのスタートではないだろうか。
もしくは珍しい生き物を飼って注目を集めたいとか、珍しい生き物を保有することで得られる自己満足及び自己顕示欲を満たしたいとか、ただ純粋にその動物が好きだからという理由もあるかもしれない。
果たしてどれだけの人が、具体的な人生設計を立てて動物を迎え入れているのだろうか?

またイレギュラーではあるが、捨て猫を拾った等の理由もあるだろう。
今の私は動物の飼育は向いていないと自覚しているので、恐らく捨て猫を見かけたとしても手を差し伸べることはしないと思うが、擦り寄られたたどうだろうか。追いかけてこられたらどうだろうか。
理性では飼えない、経済的にも無理だと言い聞かせても、縋り付かれたら振り払えるか?
無責任に保護するか、擦り寄られたことを振り払った罪悪感に苛まれるかを天秤にかけた時、果たして私はどちらの道を選択するのだろうか……。

愛玩動物の力。
実際私の実家では捨て猫を保護した。
自宅周辺で3日間鳴き続けおり、その鳴き声に耐えかねた両親が遂に食料を与えてしまった。
初めは少し手助けのつもりだったらしいが、やはり子猫は縋ってきた。懐いてしまった。
そうしてその捨て猫を保護する方針に決まったらしい。
ちなみに、実家はそれほど裕福ではない。
しかしこの決断は子猫の命を救ったに他ならない。
帰省した時にその子猫にあったが、とても楽しそうに家の中を走り回っていた。
そして一番驚いたのが両親の変化だ。
母は我が子のように子猫を抱き可愛がり、父は無邪気に子猫をからかう。
子猫の話題で家が明るくなり、お金がないと言いながら子猫のおもちゃが増えていく。
その様子を見て感じた。きっと、両親が幼い私に向けていたであろう眼差しや愛情もこんな感じだったのだろうなと。この子猫はそれと同等の愛情を受けているのだろうと。
いつも退屈そうだった家の空気がガラッと変わるほど、動物がいる空間というのは心の安息をもたらすものだと体感した。

将来や経済状況を冷静に考えれば飼うべきではない。だが飼育を否定する決定的な根拠を具体的に提示できない。なんとかする。なんとかなると言われればそれまでだ。
実際、手を差し伸べたことで確かに救われた命があり、そして幸せを得た両親がいる。
自分の責任を回避するため子猫を見捨てる選択と、無責任に保護し子猫を救う選択。
果たしてどちらが最善だったか。
きっと試されるのは、この後の行動なのだろう。
逆にこの猫がいることで生きがい得て、生気が湧き仕事に精力的になるのだとしたら……。
動物には、人間の未来を変える力があるのかもしれない。

そもそもの話。
何故アカミミガメをはじめ様々な動物が「売られて」いるのだろうか。
こんなにも愛玩動物の殺処分や外来生物の侵入が問題だと提起しておきながら、未だに様々な動物を生体販売をしているのは何故なのだろうか?
海外では生体販売を禁止している国もあるそうだが、私はそれに賛成だ。
どんなに責任を持って動物を飼っていたとしても、脱走する可能性は必ずある。
どんなに脱走したところで繁殖はしないと思っていても、いざ野生に帰化してしまうと思いの外定着してしまうことだって十分に有り得る。
そしてお金が絡んでいる以上、経営的に追い詰められた人間がする行動も、安易に予見できるだろう。

日本は島国だ。そしてこの国には貴重な日本固有種が沢山いる。
普通にしていれば、空や海を渡ってくる動物以外、この環境に侵入してくるなんてことはあり得ないのだ。
アカミミガメや他の外来種の例をみてもその被害や影響は明らかであるのに、何故未だに生体の輸入をしているのか?
需要があるから……というのが理由だとは思うのだが、正直、生体の輸入全面禁止でも良いと思っている。
会いたい動物がいるなら、生息地に直接会いにいくにとどめ、自分の支配下に置こうとは考えないほうが良いのではないか?
もしくは正当な理由、研究目的での飼育に限り、もっと購入者を絞るべきでは?
愛玩動物飼育希望者は、譲渡のみで取引が成立する仕組みには出来ないのだろうか?

現実問題、日本の経済状況や自然災害の多さ、どんどん貧困化していく未来を考えると、寿命が長い動物を飼うことは非現実的だと感じてならない。
どんなに自分は大丈夫だと思っても、いつ無収入になるか、いつ家を失うか分からない情勢だ。終生飼育を完遂できる保証はどこにもない。
また第三者が、そんな「予見できない」状態が生まれやすい環境であると知っていながら、終生飼育が出来ないのは飼い主の予見が足りないからだと言うのも、逆に厳しすぎる気がしてならない。
必ず、飼えなくなった際の動物の行き先を見つけておくのが最低限の責任だが、助け合える仲間や協力者がもっと大勢いたのなら、きっと状況は変わっていたかもしれない。

動物がいることで幸せが得られることは前述した例の通り明らかだ。
人間に感情がある限り、動物を求めることを禁止には出来ないであろう。

私だって、本当は飼いたい動物が沢山いる。では何故飼いたいと思うのか?
それはメディアやSNS上で、可愛い動物の写真や動画が流れてくるからだ。
他人が珍しい動物を愛でている姿を見て、羨ましいという感情を持ってしまうからだ。
そして「私でも飼えるのではないか」という幻想を抱かせてしまうからだ。
これでは欲求は一生拭えないであろう。
やはり野生動物のドキュメンタリーを見ている方が、余計な欲求が生まれず平和だ。

もし生体販売を禁止できないのであれば、個人に対しても飼育に関する免許や資格、経済審査等を厳しく設定したり、飼えなくなった際の動物の保護施設は必ず設けるべきではないだろうか。
現実的なのは、生体購入の際「飼育保証人」を決めて署名させ、購入者本人が飼えなくなった場合その保証人にその動物の飼育責任が移行するようにすることなどだ。
もしかしたら、私が知らないだけでこのような施策をしているところもあるかもしれないが、実際にどのくらいの効力が発揮されるかは未知数だ。

と、色々と言うだけなら容易いが、実現するには多くのハードルがあるだろう……。
私自身が思ってるだけで行動していない以上、誰も責めることは出来ない。
現状はやはり、個人の責任感に動物の運命を委ねるしかないのだろうと思う。

話を戻す。
最強のアカミミガメの話についてだが、環境省の取り組みはとても慎重で好感をもっている。様々な方面から影響を考え、段階的に対策・啓発活動をし、事態が悪化しないよう最善を尽くしていると考える。大変人道的な方針だと思う。
しかしながら、事態の収束への道のりは果てしなく長いであろう。
一方で、「アカミミガメは悪者」と認識している人も少なくない。これが正義感からくるものだと考えれば、ある意味では速攻で事態を収束できる可能性も秘めている。

非人道的な作戦例。
ある種の外来種の爆発的な人気は、メディアの力のところが大きい。
したがって同じく、メディアの力で「アカミミガメは悪者だ」と一般市民を洗脳し、駆除に対する正義感を植え付けてしまえば、誰も躊躇することなくアカミミガメを駆逐してくれることだろう。
メディアが絡めばお金の問題もなく、効率的に駆除作戦は実行される。
正義感を持って駆除に当たってくれる人々がいれば、罪悪感を持って駆除していた人々は胸を痛めずに済むだろう。
日本の本来の生態系を守るという意味では、本当の意味で正義的な行動だと思う。
刻一刻と、環境は悪化しているのだから。

外来種問題をいち早く解決するのであれば、きっとこの方法が一番手っ取り早いのであろうが、それが実行されないということは、アカミミガメを可哀想と思う人々が多いからなのだろう。その可哀想という言葉は、完全に実行者に対する批判でしかない。そしてその言葉が、駆除の効率を鈍化させ環境の悪化を進行させているという現実も忘れてはならない。
結局は膠着状態。生態系復活を優先するか目の前の命を優先するかで、意見が対立してしまうのだ。

人間ならではの理性。
効率よりも「生き物への配慮」を忘れない心を持った人々の存在。
原因と結果を正しく評価する事のできる観察眼を持った人々の存在。
そして結果優先ではなく、本来知るべき正しい知識を流布するという過程を重んじ、「命の尊厳」や「命への敬意」を優先した人々が今の現状を牽引している。
その現実に私は安堵する。
「飼うな」ではなく、「飼う覚悟」を改めて問うているのだ。
駆除の方針が強い現状を見て「可哀想」ではなく、「申し訳ない」という気持ちで、外来種について考えていくことが今後必要なのだと思う。

中立の悪。
アカミミガメのみならず、何故外来種は駆除対象となるのか?
それは何かしら、人間にとっての害があるからだ。
直接的だとしても、間接的だとしても。
生態系の悪化は、巡り巡って私達の生活に影響を与えるものと考える。

アカミミガメ飼育経験者なら分かる筈だが、水槽の水の汚染がとても早い。少し水換えをサボっただけで、水が緑色になり悪臭を放つのだ。
食欲も凄い。気性も荒い。
例えばアカミミガメが沢山棲み着く溜め池があったとする。
夏ともなればその溜め池は緑色に変色し悪臭を放ち、近くに住んでいたとしたらもう耐えられないだろう。
池の水草も食べ尽くされ、水面にはおびただしい数のアカミミガメが浮いている……。
それはもう、異様な光景であることは明白だ。
そして誰もが思うだろう。
「誰かなんとかしてくれ」と。

少なからず、駆除を実行する人はその動物の被害を被っている人を助けている。
駆除を地道に行えば、その溜め池の生態系も、完全とは行かないまでもいずれ復活するだろう。
逆にアカミミガメを哀れみ保護活動を行う人もいるだろう。この行為も、実際に駆除される運命だったアカミミガメ達を救い、保護することでその場所からアカミミガメを取り除くことに成功している。

駆除だって簡単なことではない。精神的苦痛に加え、死骸は放置しておけば悪臭を放つので適切な方法でしっかりと葬らねばならないだろう。
それには時間も体力もお金もかかる。

保護だって簡単なことではない。一匹飼育するだけでも大変なのに、それを何匹も保護するということだ。保護しても保護しても追いつかない現実に、飼育コストは無限に増える。それに比例した里親探しも骨が折れる作業だろう。

本当に、これらを実行するのは凄い事だと思う。
私はこのどちらの活動も必要不可欠だと考えている。
基本的には保護しつつ、緊急性の高い問題域に関しては駆除を実行する。
どちらも確実に誰かの救いになっている。
人間寄りか動物寄りか、方向性は違えど共存し協力していけばかなりの前向きな成果をあげられるのではないだろうか。

そして一番の悪は、私のような傍観者だ。
駆除もできず保護もできない。ただこうして思ったことを書き出すことしか出来ない自分自身に、日々嫌悪感を抱かざるを得ない。
どちらが正しいなんてないし、どちらが悪いなんてない。
でも何も行動しないのは、誰の救いにもなっていない。
本当に本当に、申し訳ない……。

思考角度を変えて。
よく「我々人間の身勝手な行動により」とか、「この責任を果たさねばならない」というフレーズを耳にする。
そして私はいつも思う。
果たして、「責任」とは何なのだろうかと。
何故「人間の」として、責任を拡大されているのだろうかとも。
冷静に考えれば、人間の責任ではなく、外来種を捨てたであろう個人や販売業者の責任なのではないだろうか? どうしてその尻拭いを、他の人がしなければならないのかと。
現実問題。その放棄した人々を特定できないのだから責任の追求をしようがないのだろうが、遺憾に思ってるのは私だけではない筈だ。
しかしここまで規模が大きくなると、結果として「人間の」責任として拡大されてしまうことが、少し苦しいところではある。
きっと「自分事として考えましょう」という啓発を兼ねているのだと思うことにする。

恐らくここで言う責任とは「直面している問題を解決すること」だと思うのだが、増えたら駆除することが責任を果たすことなのだろうか?
とても壊滅的な考えではあるが、責任とは「受け入れること」でもあるのではないだろうか。
過去の我々の行動、そして現状を受け入れ、あらゆる被害を受け入れる。
食害や遺伝子汚染、煩い鳴き声、経済的損失や悪臭などを、命を奪わず受け入れる。
外来種に対し一切クレームを言ってはいけない。
例えば人間の人工物、人工池や公園の噴水池へ侵入した場合は、ひたすらに水の浄化のみを行い、食害に関してはネットや忌避剤のみで耐える。
野生域に関しては、そこに帰化し適応した動物たちの勝利だ。
そこはもう人間の領域ではなく動物たちの領域。
減るも増えるも自然の力に全て委ねて受け入れる。

恐らくなのだが、爬虫類、主にアカミミガメに焦点を当てて考えると、いつか個体数は減少していくのではと考えている。
それはアカミミガメが温度依存性決定だからだ。
となると、地球温暖化が叫ばれている現在、将来的にメスのみが誕生しオスは誕生しない状態がくるのではないだろうか。
そうなれば私達人間が何もしなくても、アカミミガメの数は自ずと減っていくのではないだろうか。
太古の昔からそうしてきたように、自然が自然自身で種の調整を行うのだ。
温度依存性決定についての詳しいメカニズムを解明し、100%未来を予見することは難しいが、その可能性はあるのではと考える。

人間に重ねる。
少し強引ではあるがこのような空想をしてみたので書いてみる。
大昔、異国から無理やり連れてこられた人たちがいる。
その人達は祖国に帰ることも出来ず、連れてこられた地で懸命に生きるだろう。
もし、そのような人たちが文化を築き、発展し、その国の人口の大半を占め栄えてしまったらどうだろうか。
異国の民を問題視し処刑するだろうか?
異国の民はもう自国の民として受け入れ、共に発展していく道もあるのではないだろうか。
異国の民にとっては異国のその地で、懸命に生きた結果勝ち取った生きる場所。
無理やり連れてこられ無理やり生活し、そして無理やり追い出されるのはあまりにも酷というものだ。

しかしこれは異国の民が大変温和な人たちであれば成り立つ話だが、そこかしこに糞尿を撒き散らし水を汚し、食物を食い荒らし、原住民に噛み付いたり食べてしまったりしていたのなら、共に発展は難しいかもしれない。恐らく本能的に自衛するだろう。
異国から連れてきた異国の民は、これほどまでに凶悪だったのかと後悔しながら……。

とても極端な空想話をしたが、そうなるとやはり、外来動物の被害を黙って受け入れることは現実問題として難しいのだろうと書いていて感じた。

責任の取り方は一つではない。
すでに生息域を広げきっている外来生物を全て駆除しきったとしても、きっと何らかの影響が出るかもしれない。すでに「外来生物がいるおかげで」成り立っている生態系も出来ているかもしれない。
逆に過剰に保護しすぎるとどのような結果になるか、生類憐れみの令を初め歴史や個体数が急増している動物の現状を見れば簡単に想像がつくだろう。

動物に関する責任を「身勝手な人間の責任」と大きく括っている以上、それぞれが出来る対策、政策、行動、駆除、保護全てを批判しあわず連携し、バランスを保ちながら確実に前に進んでいくことが本当の責任のあり方ではないかと感じてならない。
バランスとは、具体的には個体数の管理。
管理というのは、きっと人間にしか出来ない行為だ。
しかしてこれもまた、酷く大変なことだとは理解しているが。

終着。
アカミミガメが世界各国に帰化し適応している現実を素直に凄いと尊敬する。
街で出会えるアカミミガメ、そして小川の水辺で出会えるアカミミガメたちを見るのが私の小さな楽しみだ。
問題、被害さえなければ、穏便に共存できるだろう。
だから逆に、問題、被害が起きにくい環境を作る事ができれば、この景色は保たれるのではないだろうか。
産卵場所をなくす? オスメスを分けて生息させる? 水浄化装置をフル稼働させる? アカミミガメを一箇所に集め自然淘汰させる?
どうすればいいのだろうか。分からない。分からない。
何が最善の方法なのだろうか。
その第一歩を踏み出す勇気と情熱と知識が、私には全然足りていない。

今の私に、あなたはアカミミガメの駆除に賛成か反対かと二極の質問をぶつけられたら正直口ごもってしまうだろう。
賛成でもあり反対でもある。現状を考えれば駆除が必要だという結論に傾く気もしなくはない。だが私自身が駆除をできない、〆られない。
だから何か他の道はないかと、こうやってぐるぐる考えるに留まってしまう。
簡単に即答できない。口だけの人になりたくない。
だから気安く、命に関わる二極を投げかけないでもらいたい。
本当は目を背けたい。考えるだけで苦しくなる。外来種だろうが在来種だろうが、今目の前に生きるありのままの命・その自然を見ていたい。

だがいつかは行動を起こさねば。
行動しない事自体に、罪悪感が生まれるだろう。
こうしている間にも環境は変化する。
何か少しでも行動を起こすことこそが、日本の生態系の中に生きる私が持つ責任であり、果たさなければならないことだと思うから。

極論的終着。
野生動物を本来の生息地から持ち出してはいけない。
愛玩動物をこれ以上増やしてはいけない。
でも私達は求めてしまう。
それは未知の動物たちに興味を持ってしまうからだ。
知りたいという知的欲求を持ってしまうからだ。
支配下に置きたいという、独占欲、そして所有欲を持ってしまうからだ。
……その存在を知らなければ、欲しがることもないだろう。
人間から動物に対する「興味関心」や「知的好奇心」、「独占的所有欲」を奪ってしまえば、野生動物にとって一番幸せな環境が訪れるのではないだろうか。

いや、もしかしたら……。

これらの感情や欲求をなくしてしまったら、際限なく地球を破壊してしまっていたのかもしれない。
動物たちを知ることで見えた、とても大切なことがあった筈……。
もし動物たちへの興味を失ったら、もっともっと大切な何かを、失うことになるのかもしれない。

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